恋の月華

シェアする

ことり-アイキャッチ28

月の加減だろうか。

きっとそんなことじゃない。
確かに今日の月は大きいけれど、厚い雲に覆われて月光は室内に届いてはいない。
淫情を抱いてしまった私が悪いの。
陽に照らされている時でなくても昨日までなら紅色に見えたリボンが、
今は少し黒みを帯びて、艶を持った臙脂色に見える。
こんな大切なものまで、
送り主への邪な恋情に結び付けてしまう自分が憎い。
意図せず育て続けてきた心の花もこの一夜で燃されてしまい、
残ったのは自責の灰だけ。

灯りがなくとも歩くことのできる自室の疎外感に戸惑いながら、
鞄と上着を床に落とし、
手の出来るだけ指先でそっとリボンを解いて、
テーブルの上に置く。
同じ体の一部であるのに私の心情には興味がないらしく。
おろした髪が所在無げに揺れた。
ベッドへとぞんざいに抛り捨てたブレザーを一瞥して、
音色一つ響くことのない廊下へと足を運ぶ。

――晩秋の月下へ、私は向かった。

pixiv: 恋の月華 by Beryl

スポンサーリンク


『恋の月華』


今の私に温もりは必要ない、とは思ったものの。
マンションの上階、そのベランダともなれば、
シャツとスカートでは寒気を感じざるを得なかった。

――この季節の夜の冷たさを完全に失念していたという事実に、
愕然とさせられる。
汗を含んで体に張り付いた衣服も、
まだ頬を伝っているものも、
その驚きに凍ってしまったのではないのかと感じるほどに。
この場所には、何一つ温もりがない。
一人で使うには少し大きいブランケットも、
星を見ながら飲むココアの甘さも、
手を温めてくれるほんのりと紅を差したそれも。
腰を掛ける為の長椅子すら、
ここにはなかったのだ。


五分ほど意地を張って床に座り込んでいた私は、
いくら自棄になったところで、
悔しいかな一人でいる外の寒さに負けてしまう。
汚れる事も気にせずクッションを一つ引っ張りだし、
服も着替えることにした。
純白のシャツは、
今の私にはふさわしくないと思っていたところでもあったから。
以前よりは数の少なくなった自分の寝間着からできるだけ地味なものを選んだ。


再び私は、ベランダに戻る。
寒い事には変わりないけれど、
先程と違って居られないという事はなさそうだった。
赤く染まった頬も唇も、
まだ私の心が熱く彼女に染まってしまっているように感じて、
自己嫌悪に陥った。
早く冷たくなればいいのに、とすら思った。


今日は、そもそも学校を出る時間自体が遅かったから。
彼女の家に帰宅するころには陽も西空に落ちて、
電燈はすっかり光を宿していた。
この家に帰りつくまでは一度も時計を見てはいないけれど、
その足取りは白装束を纏ったようなものだったから、
夜の帳も十分に下りてしまっている。
そして、その暗い布を押しのける勢いで燦然と輝く地上の星々が、
今は私の眼下に映っていた。
私が見たいのは、手に取りたいのは、
夜空の星なのに。
皮肉か、街の夜景ばかりが――
星というよりかは、色取り取りな花壇の花の様に、
ベランダを彩っている。
私は、大層でない鉢植えの花の方が愛おしいと思った。
――今となっては届かないのは変わらないのにね、
と口から音が零れ出た。


星を見難い一因は空にもあるらしく、
今日は厚い雲が多い。
今一度頭上を見てみると、
月は顔を隠してしまっていた。
月下とは表現したものの、
今は些か明るさが足りない。
彼女との関係に、絶望的な壁ができていた。
星に近づこうとした私へと、
絶えず手を貸してくれていた望遠鏡も今ここにはい。
当然のごとく元から何もなかったスペースが、
空虚さを顕示しているだけだった。



「真姫ちゃん、好きな人ができたって本当だったんだ」

恋の花を育て始めたのは、
今思えばあの日からだった。
学校に皆で植えたひまわりの季節が終わる頃。
まだ、三人並んで座ることのできる長椅子と星を見る為の望遠鏡しかない、
彼女の家のベランダで。
私は、そんな風に言ったのだったと思う。
彼女は少し困ったように、私を見ることはなく。
望遠鏡の調整に集中しようとしていた。

「話、聞かせてくれないの?」

「…………相手が誰かは、まだ聞かないでくれる?」

「いいよ」

私の呼びかけにやっと答えてくれた彼女は一つ息を吐き出し、
椅子の端に腰掛けながら、
真ん中に置いてあったタオルを首にかける。

「二年になってすぐにね、好きな人ができたの」

俯いているから、
布一枚はさんで口元を見せてはくれない。

「そっか。
 部活の間は一番近くにいると思ってたけど、
 私、全然気づかなかったな」

私が赤いリボンをつけなくなった季節。
彼女が赤いリボンを付けるようになった季節。
どんな一年よりも濃密な学年を過ごす間つけていたけれど、
私と彼女の距離が近くなったからか今年も身近に感じて、
お気に入りのカラーリング。
そんな春の学校の、
私の知らない場所で、
可愛らしい恋の花が咲いていたなんて。

「落ち込むことないわよ。
 あなたにだけは気付かれないように、
 ってこれでもずっと隠してきてたんだから」

「パートナーだから、気を使わせないように?」

「……えぇ、そうね」

一年生の子が話しているのを偶然聞いた時は、
私だって花の女子高生だ、
心を躍らせて彼女のいる音楽室に足を運んだ。
一緒に二人で舞台に立っている相手の恋話に意外さを感じつつ、
去年の彼女を見ている事から微笑ましく感じつつ、
心の底から応援してあげたいと思った。

「……ことりは、好きな人はいないの?」

少し意外な反撃。

「さあ、どうでしょう?」

「逃げるのはナシよ。
 わざわざ恋バナをする為に泊まりに来たんでしょ?
 私にも訊く権利はあるわ」

「うーん、じゃあ正直に答えるけど。
 今はいないかな、真姫ちゃんと歌ってる時間が楽しいし」

赤くなった顔が、白い靄の様に降り注ぐ光で照らし出される。
肩を大きく揺らして縮こまるものだから、
すぐにそれは隠れてしまったけれど、
その様子がおかしくて。
追い打ちをかけるように
「もっと真姫ちゃんの恋バナについて聞かせてほしいな~」
なんて言ったら、
タオルを投げつけられてしまった。

「星、見てみなさいよ」

ここ半年で慣れ親しんだ彼女の香り漂うタオルを私も首にかけつつ、
露骨な話題逸らしに応じて、
言われるままに望遠鏡を覗く。
視界に、大きな月面が広がった。
「こんなによく見えるんだ」って、
思わず声が漏れる。
「ね、いいものでしょ?」と視界の外から答えた彼女は、
お茶菓子を取ってくると言って、
網戸を開けて部屋に戻って行った。

しばし虫の歌に聞き惚れながら、
微かに熱を持った夏の風を肌に感じつつ。
自分も白い月を見て何となく思い浮かんだ輝夜の歌詞を、
鼻で奏でてみる。
レンズの向きを少しずらしてみると、
地上からは小さくて見えなかったものが静かに寄って来てくれたように、
星々を眺めることができた。
彼女が星を眺めるのが好きだという理由が、
少しわかった気がした。



一つ強く吹いた冷たい風に、
私は肩を震わせる。
夏の風が恋しい。
まだおかしくなる前の夏の日々に、
時を巻き戻してほしい。
μ’s が解散した時にも思わなかったそんな気持ちが、
私の心を蝕んでいく。
クッションもすっかり冷たくなってしまい、
温かみが欠片にも感じられない。
のそりと立ち上がった私はまたしても夜のベランダに一人敗れて、
温かい珈琲を入れるため一旦室内に戻ることにした。


湯を沸かしている間、
私はクローゼットを探索する。
ブランケットがあればいいなと思ったのだけれど、
探してもタオルケットしか見当たらなかった。
流石に毛布を外に出すのは、気が引けた。
自分の家に枕がない事に気づき、
今日穏やかな眠りにつくことを心の底から諦めた。

結局テレビなどをつける心持にもなれず、
かといって室内では何もしないでいる気にもなれず、
何か外でずっといられるような温かいものを、
再び物色する。
少し派手な、でも確実に暖は取れそうな、
もこもこの靴下が見つかった。
小鳥をモチーフにしたスリッパが見つかった。
でも今はここに私の手袋はないし、
お母さんのものもなぜか見当たらない。
仕方がないので残っていた冬用のコートを、
取り出してソファの上に投げ置く。
静かな室内で唯一音を立てていたコンロが止まった音がしたから、
私は足早に台所へと戻った。


そういえば、
彼女の家ではココアを飲むことが多かったな。
なんてことを誰に言うでもなく呟きながら、
流し台の蛍光灯をつける。
白い光が目にまぶしかった。
今更ながら、手袋を探すときくらい電気を付ければよかったと、
失恋から知能が激しく後退している私を嘆いた。
ここで過ごしている時は、
私だって受験生だ、
夜のお供によく珈琲を淹れることはあった。
けれど、
コーヒーカップもドリッパーも、
なぜだか取り出す事自体が久しぶりのように感じてしまって。
毎晩一人で過ごしていた日常が、
随分と見慣れないものと化している異常事態。
一瞬で過ぎてしまったと体感しているこの数ヶ月の間に、
私が大きく変わってしまったという事なのだろうか。
鼻をすすりながら、
外にティッシュも持っていこうと思った。


お湯を注いでいる間は、
いつも無言になる。
ただ黙々と、黙々と。
落ちていく黒い水滴を見つめる。
けれど、心の中では色々と考えを巡らせている事が多い。
今日だって例外ではなかった。
さっき部屋をうろついて思った事なのだけれど、
私はあまりにも多くのものを、
彼女の家に残してきてしまったらしい。
秋に毎晩星を見ようと外に出るからか、
上半身を温める手袋も、
あまり使いもしない癖にもうこの家にはない。
自身の温かみを持った部分も、
置いてきたようで見当たらなかった。


厳密に言うと、
三年生になってからは既に何度かお泊りはしていたから、
最初の日というわけではないのだけれど。
まぎれもなく、
『最初のお泊り』をしたあの日から。
私は、
よく彼女の家に泊まるようになった。

理由は、
訊こうと思っても、
学校では決して恋の話をしてくれようとしなかったから?
……家でも三日に一度くらいしか、
好きな相手の事を話してくれることはなかったけれど。

理由は、
彼女の家の望遠鏡を覗く時間が、
そして時々ピアノで奏でてくれる音色を聴く時間が、
好きだったから?

理由は、
ユニットのパートナーとして、
距離が更に縮まったような気がして嬉しかったから?

色々と思い浮かぶことはある。
でもまだ最初の頃の最大の理由は、
勉強が捗るという何の可愛げもないものだった。
彼女の入れてくれるココアは美味しかったし、
今までずっと一人で勉強していたせいか、
一緒に話してくれる相手がいるだけで何かが違うような気がして、
ペンを持つ手が軽かったのだ。
それに加えて聡明な彼女は、
私が分からないところを少し説明すると一緒になって考えてくれる。
気分転換に月下に出て、
星を見ながらする会話のやり取りが、
何より心地よかった。

「これだけ毎日のように見てるのにな。
 まだどの星がどうだー、とか、
 こういう星の話があって、とか。
 全然覚えられてないや」

「別に、知識として覚える必要はないのよ。
 眺めてるだけで心が安らぐでしょ?」

「そうだけど……。
 でも、真姫ちゃんはよく知ってるでしょ?」

「もう。
 仕方ないわね」

大きな月が見ているベランダで、
この一連の流れを毎日のように交わして。
その後真姫ちゃんは、私に星の事を教えてくれる。
今思えば、あの時が一番幸せだった。
まだ暑さは少し残っているけれど、
少し早く訪れるようになった暗がりの中。
去年はたまに見る機会があった程度の彼女の部屋着姿や、
月明かりに照らされた赤い頬と綺麗な髪が、
目に焼き付いて離れてくれない。


転機は九月十二日。
季節が移り変わったのと同じように、
音も立てず静かに変遷し始めたものがある。
彼女へ向ける、私の目だ。
練習を休みにまでしてくれて部室で行われたパーティーのトランプゲーム。
手札のハートのキングとクイーンが、
なぜか印象に残っている。

例年なら二人の幼馴染の家へ行くところだけれど、
私はこの日も彼女の家に帰宅した。
勉強道具や服を含む私物の多くが、
もうこの家に移っているからだ。
元から帰りの遅かった私のお母さんは相手の家を聞くと安心したような表情で、
連日の外泊を認めてくれた。
彼女に訊いてみたところ西木野家も似たような反応を示してくれたらしく、
空いている部屋を借りることができた。
夕食を食べて、シャワーを浴びて。
「少し待ってて」と言われるまま自分の荷物のある部屋に押し込められた私は、
部室で彼女から貰ったプレゼントをようやく開封する。

――中に入っていたのは、紅色のリボンだった。
贈り物としては、よくあるものかもしれない。
でもなぜだろう。
意識の外から狙撃されたように、
目を丸くして驚かされてしまった。
数秒後、その色が頬に移ったように染め上げられて、
嬉しさが込み上げてくる感覚に襲われる。

「気に入ってくれた?
 少し彩度が違うけれど、あなた去年のリボンの色、
 気に入ってたみたいだから」

いつでもつけておけるようにプレゼントしたのよ。
などと言いながら、
今度は私の頬から彼女にも移ったように鮮やかな花が咲くものだから。
私が
「少しの間、学校でお揃いだね」
なんて言ってあげると、
彼女は背を向けて足早に部屋から出て行ってしまう。
「こっちに来て」と、
少し上ずった声が続いた。

やってきたのは、
既に月光が差しているベランダ。
けれども私は、
昨日までとは趣を異なものとしているその様に、
思わず格好のつかない声をあげてしまう。

「これは、何の花なの?」

「ホトトギスよ。
 今日の誕生花なの。
 何だか小鳥っぽいでしょ?」

「うん、そうだね」

彼女が言うには、本当はパートナーになってからすぐ、
誕生日に花束で渡そうと育てていたのだという。
真夏の暑さに弱いこともあって日陰で育てていたものを、
毎日過ごすベランダにサプライズで登場させたとのこと。

「何だか、花鳥風月全てが揃ってる感じだね。
 鳥は、私だけど……」

暑さも衰え始めて最近吹き始めた秋冷の風に髪を揺らした彼女は、
文字通りその言葉だけを切り取った二人きりの世界で、
私だけに聞こえるように。

「別に他にも負けないくらい、ことりは綺麗よ」

と。
小さく唇を動かした。
月下美人。
自然とその言葉が頭に浮かんだ。
これも確か花の名前のはずだ。
確か、花言葉は『はかない恋』だった気がする。

「真姫ちゃん、震えてるよ」

私がそう言うと、
彼女はピクリと肩を揺らして、何でもないと笑った。

「――自分が情けないわね。
 ことり、今から言うわ。
 好きな人の名前」

頑なに教えることを拒んでいたその名が、
私に伝えられようとしていた。
どこか無理をしているような表情で。
でもいつも仲良くしてくれてる私に、
少し秘密を教えてあげたいような表情で。
もう心を決めたんだ、真姫ちゃんは。
でも、今までは知りたかったその名前を耳にすることが。

――なぜか、私は猛烈に嫌だった。
私は、彼女の恋を応援するんじゃなかったの?
何で私は、真姫ちゃんの思い人に嫉妬してるの?
嫌だ、彼女に儚い恋をさせる相手の名なんて、
聞きたくない。
その一言は、
私の今の生活を全て破壊する威力を持った銃弾の様で。
それがよりにもよってこの日の最後に、
施条から紅い螺旋を纏った花びらのように、
鮮やかに発砲される。
加えてそのトリガーを引く相手が、
私の最愛のパートナーだなんて。
あまりに、酷な話だった。

「真姫ちゃん、ありがとう。
 でも、今日はたくさん貰い過ぎちゃったから。
 また今度聞かせてくれる?」

「ちょっとことり、
 私は今日言うって決めてたのよ?」

「お願い」

「で、でも……」

「お願い」

彼女はひどく困った表情を見せ、
唇を一噛みした後、
「学園祭の日の夜に言うわ」とだけ告げて、
ココアを作りに部屋に戻ってしまう。
残されたのは、
とても花鳥風月に似つかわしくもない薄汚れた心を持った自分と、
初恋の余命宣告だけだった。



上着を羽織った私は淹れ終えた珈琲を手に、
ベランダの扉を開ける。
もうあの頃の様に初秋ではない、
初冬に入りつつある。
秋の初風ではなく、木枯らしが吹いていた。
クッションを一旦室内に移していなかったことを後悔しつつ、
お尻をつけるとやはり冷たくて。
たまらず珈琲を啜ると、
反吐が出るほど心地のいい甘さだった。
きっと叶わなかった初恋の穴埋めをしようと、
舌を含む全身が甘さを欲しているのだった。
無意識に砂糖を多く入れた手と、
下卑た味覚に嫌気がさす。
模擬店の紅白の看板が思い浮かんだ。
彼女と二人で食べた綿あめを思い出し、
悪いのはただ自分一人であるのに、
辛くなる。


中に入っている間に幾分か風が吹いたようで、
雲が少し流れていた。
今の私にとっては、
空がよく見える方が胸に痛みを感じる。
雲などという壁がなくとも、
星には決して届かないんだと、
高いところから嘲笑されている気がしてならなかった。

――そして何よりも、中空の月。
すっかり風雲を退けて恐ろしいほど強く光を放つそれは、
いつにも増して大きく、
神々しく、
私をねめつけていた。


誕生日の夜も、結局は気まずい空気にならず。
――言い換えるなら、
お互いにぎくしゃくした空気でいる事を拒んで。
それまでの日々の様な距離感が失われることはなかった。
私達が秋の夜空の下に出る時には、
ホトトギスの花に続いて色々なものが増えて行った。
長椅子に敷く、
紅白の座布団。
月を見ながら食べるお菓子を置くための、
ささやかな机。
花を増やしたくて、
花瓶も置いた。
二人で学校の帰りに、
花屋を訪れる事も多くなった。
夏の初めには互いに椅子の端に座っていたのに、
二人で寒さをしのぐ為に身を寄せ合って、
同じブランケットを羽織りもした。
手袋も持っていたけれど、
ほんのりと紅をさした彼女の手の方が余程温かいとすら思った。
去年に続いて、
今年も予想のつかない出来事の連続だ。

心から、幸せだった。
でもそれと同時に、
私は自分より少し背の高い彼女の肩に凭れながら、
震えていた。
寒いからではない。
誰よりも優しくて愛おしい彼女が、
無意識にちらつかせる銃口に震えていた。
これだけ純粋に私へと愛情が向けられていると感じているのに。
これだけ誰よりも一緒に一日を過ごしているのに。
その本心は私の名も知らない誰かに向けられていると思うと、
何も信じられない程怖くてたまらず。
そして、好きな人がいると分かっていて、
加えて応援するとまで言った私の、
彼女の甘さに付け込んで甘えている姿が見るに堪えなかった。
この世で最も端麗な織物ではないのかと思う程、
互いの髪が縫い合わさっているかのように交っている様ばかりが月明かりに映え、
私を皮肉っているようだった。

「ねえ真姫ちゃん。
 星ってどうして、近付こうとしても手が届かないの?」

「何それ。
 哲学?」

「そうかもね」

「私は……
 そうね、星ならいつでも見れるのに、
 なんで近いものの方が遠いのかと思うわ」
「ふふ、
 それが真姫ちゃんの哲学?」

「そうかもね」

そう言った彼女の、
思い人へ向ける遠い視線に耐えられなくて、
私は彼女の腕を強く胸に抱きこむ。
望遠鏡がなければ、
星を近くに見ることすらできない人がすぐ隣にいるのに。
どれだけ手を伸ばそうとしても真姫ちゃんは、
実際の距離より遠くの誰かの元にいて届かないって言うのに。
それもまた、残酷な話だった。


かつては純白に見えた制服も、彼女のリボンの色も、
この頃にはもう純粋な心で見ることができなくなっていて。
艶っぽい唇や遠くを見つめる瞳にばかり目を奪われてしまって。
その結果が、
今いる私のベランダだ。
花の一輪どころか、
夏の初めからあった望遠鏡すら、
ここにはない。
置き場のないコーヒーカップが一つと、
自分のものですらない寝間着と靴下。
それとスリッパ。
独りで座る冷え切ったクッション。
同じものは風と、月が浮かぶ夜空だけで、
それはいつになく冷ややかな視線で私を追い立てる。
花はない、
鳥は翼を汚してしまった。
世界に存在しているのは、
ただそれだけだった。
今この場に彗星が落ちてくる様な事でもない限り、
真姫ちゃんはやってこない。



私への死刑宣告が下される約束の日。
学園祭の間は、自分でも驚くくらい上手く過ごせていた。
そもそも、何でもすぐ気付いてしまう幼馴染の二人が、
私のこの醜悪な心に感づけなかったのはなぜか。
ずっとそばに真姫ちゃんが居てくれて安心していたからだ、
とあの時は思っていた。
部活で練習していた私達のライブでも最高の演技を披露することができたと、
そこだけは誇りに思う。
しかし、得てして物事が上手くいき、
気が緩んでいる時にこそ何かがあるもので。
ご多分に漏れることなく、
意外な形で瓦解の時が来てしまった。

演技を見てくれたクラスの人や同じ部活の後輩、
更には文字通り一人も漏れることなくμ’sのメンバー全員から、
『私と真姫ちゃんの交際』
を祝うような言葉を頂いてしまった。
私が返す言葉を失っている間も、
彼女は少し怒った口調で何かをいうものの、
一切の否定はなく。
「素直じゃない」というのが見て取れるような、
嬉しさを隠せていない表情をする。
この時、私の彼女への思いに誰も気づかない理由に、
納得がいった。
皆勘違いしているんだ、って。
これが真実の恋だったらどれほど嬉しかったか分からないけれど、
私は彼女に好きな誰かがいることを知っているから。
頭が真っ白になった。
何でそんなにも、
満更じゃない表情なの?
この偽りの交際関係に、
なんでそんなに嬉しそうな顔をするの?
何で好きな人がいるのに、
平気で受け入れているの?
届かないからと言って、
私で妥協したの?

近頃の不安と、
それを皆に見せない為の無駄な奮闘。
そして学園祭の準備で疲弊しきっていた私の脳では、
この疑問を解決することはできなかったらしい。
皆には
「この後二人で予定があるから」
なんて事を言って、
何かいろいろと言おうとする彼女を連れて、
一言も喋らないまま家へと帰った。
私は夜まで
――直に彼女から手を下されるまで、
待つことができなかったから。


自室に戻ってきたときにはもう立てなくなりそうだったから、
不安に負けないようゆっくりと足を踏み込んだ。
追って部屋に入ってきた彼女の声に我慢する事が出来ず、
意に反して機械的に、
ミシンが動き始める。
もっと感情的な言い回しができるのかと思っていたけれど、
その時の私は無理に気丈を振る舞ったからか、
驚くほど冷たくて無感情な言葉選びをしていたようだった。
……何を言ってしまったかは、覚えていない。
ただ、学校で思った事を淡々と言葉にして、
彼女に鋭い針を落としていく。
本来は繋ぎとめるはずの糸もなく、
お互いの心に穴だけを開けていく。
余裕がないと大好きな人にもこんな事を言ってしまう私なんかじゃなくて、
一番好きな人と恋を成就させてほしい。
――切に、そう願った。

でも彼女はそんな私に対して、
どこまでも純粋に、
どこまでも優しく。
心の底に秘めていた情熱を込めるかのように――
震える私の身体を抱きしめてくれた。
一瞬
『彼女の思い人は私なんだ』
と勘違いしてしまう程、
力強く。

「あの時言わなかったこと。
 早く思いを伝えなかったこと、
 本当にごめんなさい」

……ただ思いを伝えてくれるだけなら、
彼女の思い人を理解した私は拍子の抜けた表情でポカンと見つめて、
少しはにかんだ笑みを見せあいながら、
愛の告白を交わすことができたのだと思う。
でもこの時彼女は、
悪手を打った事に気付いていなかった。

限界に限界まで抑え込んできた、
彼女への色欲。
精神的疲弊に起因する、
不安定な情緒。
背中に回された両腕、
私の頭に埋められた彼女の顔。
私の方が背が低いから、
彼女は気付かないまま鼻先をうなじに押し当ててくる。
目は彼女の髪に覆われ、
鼻孔は彼女の香りに覆われ。
耳元では彼女の優しい声、
全身には彼女の温もり。

――口。
唇に、
彼女が欲しい。
そして私は、
あぁ、罪深いことに……。



――ピポン。
ピン、ポーン。
と、
玄関チャイムの鳴る音。

思わず私の生涯最大の悪事の記憶が霧散して消え去り、
心臓が止まりそうになる。
出るべきか、
無視するべきか。
私が戸惑っていると、
もう一度チャイムが鳴らされた。
ベランダの扉をゆっくりと開けて、
寒さにか不安にか、
もはや何に震えているのか分からない足取りで、
玄関へと向かう。
耳を澄ませると、私の名を呼ぶ声が聞こえた気がして。
前へと進む足が、自然と早くなる。
嘘だ、どうして……?
近付いて欲しくないという拒絶よりも、
何故ここに来たのかという驚きが勝った。

「ことりっ」

ドアを開けた瞬間彗星の様に飛び込んで来た真姫ちゃんは、
断熱圧縮でも起こっているんじゃないのかと思う程
熱を持っていて、
凍っていた私の身体を優しく溶かしていく。

「身体が冷たいわよ、
 それに部屋が暗いわ。
 ――早く何か、電気をつけましょっ?」

私と家の様子を見て驚いた表情をした彼女は、
心の底から心配しているといった声音で私に呼びかける。
その気持ちが、
当然嬉しい。
嬉しい、
けど……っ。

「どうして、
 私の家に来たの?」

「そんなの決まってるわ。
 あなたのことが心配だったから」

「夜に家から出たら、
 危ないよ?」

「下まで無理を言って、
 家の人に送ってもらったから」

私を安心させようと微笑む彼女に、
そうじゃない、
と心の中で叫ぶ。

「警告はしたよ」

「……?――ッ」

彼女の右手を掴んで、私は壁に押さえつけた。
少し強引な手段だけれど、
彼女に引いてもらうためには仕方がない。
私みたいなダメな子を、真姫ちゃんみたいな
ピュアで優しい子が好きになっちゃダメなんだ。

「だから言ったでしょ?
 危ないって。
 無理やりキスをしちゃうようなことりじゃなくって、
 もっと大切に真姫ちゃんを扱ってくれるような人を……」

――はぁっ、
と。
何か呆れるほど可愛いものでも見つけて
思わず息が漏れ出た様子で、
彼女は首を横に振る。

「じゃあ、
 毎晩自分の家から出てたあなたはどうなるのかしら?」

「そ、それは……。
 それより、
 また意思に関係なく襲っちゃうかもしれないんだよ?
 真姫ちゃんは、
 嫌がってもキスされるんだよ?」

けれど。
どうやら、
彼女の方が私より力が強かったみたいで。
キングがクイーンサイド・キャスリングをするように――
ターンを描いて逆転しながら、
私は床に押し倒されてしまう。
背中には右手を回されて、
顔の横には手をつかれて、
逃げ場がどこにもない。

暗がりの彼女に、ドキリとした。

「ピュアなあなたに教えてあげる。
 好きな人からのキスは、
 嫌なんてことはない。
 たとえ無理やりでもご褒美よ。
 襲われる内には入らないの」

「ま、まきちゃん?」

彼女は動揺する私に構ったりすることはなく
……不意に、
唐突に、
唇を落とした。

私がした時のように、
よく分からないまま少し唇を挟んで
歯をぶつけてしまう様なものじゃなくて
――優しいキス。
真姫ちゃんはリップを塗っていたようで、
花の香りがかぐわしい、
甘い甘い接吻。

「寒い所でいたから、
 唇がカサカサじゃない」

「ごめん」

「いいの、本当に心配したんだから」

そう言いながら口元を這わせるように下へ下へとずらしていった彼女は、
その柔らかい唇を強く押し当てて……。

「――えっ、ちょっとっ」

そんな台詞になっていない言葉を口から洩らしつつ、
私は首筋に吸い付く彼女をどうすることもできない。
何秒か分からないくらいじっとしていると、
言葉とは裏腹にご満悦な表情をした彼女が顔を持ち上げた。

「ごめんなさい。
 もし嫌だったら私の負けだわ。
 でも、今のあなたは自分を淫乱な子だと思ってたみたいだし、
 これくらいしないと言葉で言っても納得してくれないでしょう?」

いまいち腑に落ちないセリフに私がきょとんとしていると、
耳元でそっと囁かれた。

「勝手に自己完結しようとしたあなたへのお仕置きよ。
 そのキスマーク」

背筋が興奮で、ピクリと跳ねた。
文字通り、彼女に肌を染め上げられてしまったんだ。
全身に鳥肌が立って、心臓が早く脈打つ。
その場所を手で触れてみようとして、
私は不意に手を抑えつけられてしまった。 

「教えてあげるわ、ことり。
 襲うっていうのは、
 無理やりキスをすることじゃないの。
 絶対に敵わないって思うくらい相手を支配して、
 その人のことしか考えられないようにすることよ」

――そう言う彼女は、
今までの人生で見たどんな人よりも、
格好いいとすら思えた。
文字通り、
私は真姫ちゃんに心を、
支配されてしまったのだ。

けれど、
にこりと柔らかく表情を崩した彼女は打って変わって、
私の手をそっと引っ張って座らせてくれる。
いつもの優しい表情で私の肩を掴んで、
それでも少し真剣な色を見せながら、
思い人の名を語ってくれた。

「私が好きな人はあなたよ、
 ことり」

「わたしも……
 真姫ちゃんが、好きです」

ぷつりと感情の糸が千切れて、
彼女に抱き付く。
もう寒くない。
身体は熱く、
その熱が心地いい。
無理に飾り立てる言葉は必要ない、
彼女がそばにいるだけでよかった。

「不安だった。
 不安だったの」

「それは本当にごめんなさい。
 もっと早く告白してればよかったわね」

「私が拗らせたんだよね、
 ごめん」

「ことりは、自分を責める必要なんてないの。
 あなたはとっても優しい子なんだから」

お互い様ね、と頭を撫でてくれる彼女に頬を擦り付けて、
私達二人はずっと、身を寄せ合っていた。
草木灰だって、肥料になる。
私達の恋の花は燃えてなんかいなくって。
この一難を糧にもっと大きく花弁を開くことだってできるんだということを、
私達は知った。



電気をつけてくる、
という真姫ちゃんとようやく離れて、
私はもう一度ベランダに出る。
すっかり冷え切ったコーヒーカップと
クッションを回収しに来たのだ。
頭上を見上げてみるとやはり月は大きく、
今年で最も月華の輝く夜と言わんばかりに、
強い光を落としていた。
私達の恋の花はあの下で育っていったのは間違いなくて。
その一番の節目に、
ねめつけてなんかはいなくて、
祝福するように微笑んでくれている。
何だか、面映ゆかった。

「こんな所にずっといたら、
 風邪ひいても知らないわよ?」

すっかり光を灯した室内からベランダに移ってきた彼女に、
後ろから腕を回される。
柔らかい感触と共に体温が伝わって、
寒さが和らいでいく。
やっぱり、
二人なら寒気もなんてことはない。

「そういえば、
 今日はスーパームーンなんですって」

「えっ、そうだったの?」

「そうよ。
 これの次は、18年の元旦まで見られないって」

「…………じゃあ、
 そんな特別な月に祝ってもらえたんだね」

ふふっ、
と声を漏らしながら真姫ちゃんが私の頬を撫でてくれて、
私はもう片方の腕をぎゅっと抱き込む。
お互いに不器用なせいで遠回りをしてしまったけれど、
この月の下で恋の花を咲かせられたのなら。
自分を責め苛む必要はないということを伝えてくれた彼女に、
私の最愛のパートナーである彼女に、
こうして不安なく甘えられることができるのなら。
少しくらいゆっくりとした足取りで進むのも、
いいのかもしれない。



End



どちらからともなく、
目を覚ました。
窓から見上げる空はまだ暗く、
夜が明けていないことを告げている。
彼女が持ってきていた鞄から造花を取り出して、
適当なグラスに挿した彼女達はベランダに出て空を見上げた。

「送られた花の意味くらい、
 ちゃんと調べてくれればよかったのに」

「ごめん。
 頭がいっぱいで余裕なかったから」

「ふふっ、まあいいわ。
 ……ねえ、二人だけで一緒に住むようになったら、
 本物の薔薇を植えましょうか」

学園祭で飾りに使った二輪の紅と白を撫でながら、
彼女が言う。

「秋の薔薇は人が咲かせるもの。
 しっかりと二人で過ごせるよう、
 今日から計画を綿密に立てましょう?
 そして、自分たちで育てた花壇の横で、
 こうして手を取り合って夜空を見るの」

「真姫ちゃんなんだか、
 ロマンチストだね。
 もう夜も明けちゃうけど」

「……嫌だった?」

「ううん、嫌じゃない。
 好き」

都内のどのあたりに住めば同棲できるだろうか。
二人の時間を作る為に、お互い何ができるだろうか。
大人になっても一緒に暮らすために、どうすればいいだろうか。
考えてみると存外難しく、
夜空の星座を見つけるように二人で模索していく。

「そろそろ夜が明けるわね」

「そういえば、あんなに毎日空を見てたのに。
 ……明け方に起きてるのは初めてだね」

暗かった空が、
地平線の向こうから染め変えられていく。
一面が、
白く、白く。
薄ぼんやりとした柔らかい色合いの明るさに、
段々白んできた空。
そしてまだ眠っていた都会の朝が、
どこかから奏でられる小鳥の音色でたわやかな瞳を持ち上げる様に。
なだらかに陽が昇り始める。
心の奥深くまで温めてくれるような
真紅の光球が白との境界から徐々に、
指で掻き回したみたいに溶け合っていって、
その恋の化学反応が魅せる光景のあまりの眩しさに、
二人揃って目を細める。

髪の狭間を埋めるように寄り添って
木枯らしをしのぐ様に暖を取った二人は、
同じそれが、
名からは想像できないほど優しく
グラスの二輪を添わせた事に気付かない。
新しい季節の朝が、
人知れず世界に訪れていた。
スポンサーリンク

シェアする

フォローする

『恋の月華』へのコメント

コメントの投稿には初回のみDisqusへのアカウント登録が必要です。Disqusの登録、利用方法を参考に登録をお願いします。
表示の不具合、カテゴリーに関する事等はSS!ラブライブ!Disqusチャンネルにてご報告下さい。